ようこそ、滋賀県平和委員会へ

 はじめまして、このHPは2012年5月にオープンさせていただき、日本の中心・琵琶湖・滋賀から平和の話題を提供、みなさん方と平和を共有していきたいと思っています。

 平和と言えば、赤ちゃんからお年寄り、犬・猫や花・木まで全ての生物、宇宙まで包まれる壮大な概念が思い当ります。そして、平和という言葉の対極に、戦争や暴力、殺人、略奪などといった非人間的な言葉がおかれ、人として豊かに生きてゆくために「平和」が必要不可欠のものであることが語られていると思いま す。

 言い換えると、人間の生きてゆくこと自体が平和運動をしているようなもので、「戦争反対」「暴力やめよ」「琵琶湖の水を放射能で汚すな」などは、生きるための当たり前の主張であり、その対極にあるものを取り除こうとすることも、生物が外敵から身を守ろうとする、極めて当然の行為であると思います。

 要は人類の生存を脅かす「核兵器の廃絶」や戦争のための「武器・弾薬」、そして、戦争しようとするシステムの「軍事同盟」をなくすすために、知恵と力を出し合うというのが平和委員会。その滋賀の一員です。 まずはご意見、ご協力をお願いします。 

 

  2013520日  滋賀県平和委員会事務局長 木村晨二 Tel/Fax 050-7511-2370

 

会の生い立ち

滋賀県の平和委員会は、1955年2月6日にうまれました。http://www19.jimdo.com/app/s71aef39d42ff0e93/p9808701a819fa167/ 

 

 詳しくは「滋賀平和運動60年史」をご覧ください。

 

 

滋賀県平和運動60年史

 

はじめに

 

ほんとうに激動の60年でした。

滋賀県の平和運動も「なんでこんなことができたんや!」年表をつくってみるとものすごい運動の連続です。まさに風雪の60年でした。年表にはすべての運動を網羅することはできません。このほかにも、地域でたゆまない、かぞえきれない運動がくりひろげられていました。

一つ一つのとりくみには、言葉にいいつくせないような感動がみちていたにちがいありません。それをすべて伝えるには何千、何万の証言が必要でしょう。

限られた「平和運動史」ではすべてを語ることは不可能です。

ほんの一部しかつたえることはできませんが、しかしできるかぎり生きた人間の涙と、汗と、喜びが沁みこんだ歴史を語る運動史にようとこころみました。 

平和運動百年史をつくるころには世界も日本もすっかり変わっていることでしょう。それでもなお「平和委員会」は必要なんだ。私たちはそう信じます。その日のために、この小冊子がいささかでも役にたてばと願っています。

 

なお第1部は「ここまできた平和運動」としてそれぞれの時期の特徴的なたたかいをふりかえり、第2部は「平和運動60年史」として年表をおさめました。それは年表こそが歴史であって、年表は付録や参考資料ではないという思いからです。

 

 

       2010年1月

       滋賀県平和委員会・「滋賀県平和運動60年史」誌編集委員会 

 

 

 

 

はじめに

=   目    次   =

 

第1部、ここまできた平和運動 =たたかいをふりかえって=

 

Ⅰ 敗戦・占領軍の弾圧・平和運動の夜明けの時代 ・・・ 1

 

 今井幸さんの証言 おおぜいパクられた               ・・・ 3

 

 梅本菊二郎さんの証言 満蒙開拓青少年義勇軍から生還して      ・・・ 4

 

 福本正一さんの証言 日野で7000人の平和祭りをやった神主さん  ・・・ 5

 

 阿形賢応さんの証言 60年八日市安保共闘議長は迫力ある快僧    ・・・ 6

 

 伊藤清太郎さんの証言 米軍の軍事裁判で重労働3年・京都刑務所に  ・・・ 7

 

Ⅱ 原水禁運動・基地闘争・そして平和委員会の誕生

 

彦根マルビシ百貨店に2万人                    ・・・ 9

   学生がやった原爆展は「押すな押すな」

 

衆議院公聴会でも市民が訴えた                   ・・・10

あいば野米軍基地化反対の町ぐるみの大運動

 

「日常的に」平和運動を                      ・・・13

滋賀県平和委員会の誕生

 

自衛隊適格者名簿をバクロして                   ・・・14

新聞に週刊誌に大反響をよぶ

 

Ⅲ 安保破棄の統一戦線の追求、ベトナム反戦運動

 

あのころみんな若かった!                     ・・・15

元気な平和委員会に狂ったような攻撃が

 

反戦フォークソング・安保破棄の統一戦線の追求           ・・・16

そして70年安保は大津で4500人のデモ

70年安保の年                          ・・・19

原爆忌お寺の鐘はこうして鳴った

 

おばあちゃんのお友達は原水協の人だけ               ・・・20

  お葬式に出てあげてください

 

ボクこのビラ配る!連鎖原爆写真展の衝撃              ・・・22

1年に220回の原爆写真展に発展

 

Ⅳ 日米軍事一体化に抗して

 

ナイキ配備反対に                         ・・・23

間髪をいれず決起した平和委員会

 

全国の熱い連帯につつまれた                    ・・・25

あいば野日米合同演習反対闘争

 

Ⅴ 核兵器廃絶、戦争反対、「団体」のワクをこえた平和運動へ

 

国連に2000万署名                       ・・・29

長浜で2000人・彦根で4000人の反核平和フェスティバル

 

ヒロシマ・ナガサキからのアピール署名を軸に            ・・・30

青年団も婦人会も平和運動に立ち上がる時代に

 

戦争法=新ガイドライン・有事法制反対運動のひろがり        ・・・32

50回を越える土曜日曜行動など

 

Ⅵ 本格的な「戦争をする国づくり」の中で

 

改憲の大合唱・米軍再編の前にかぞえきれない「憲法のつどい」     ・・・34 

自治体をまきこんでたちふさがる平和運動

 

自治体の平和施策は百花繚乱                     ・・・35

「平和行進」「署名運動」平和運動にたちあがった草津市

 

おわりに                     ・・・37

 

 

 

 

Ⅰ 敗戦・占領軍・平和運動の夜明けの時代

男女の川(みなのがわ)という横綱をご存知ですか? 双葉山と並び立った横綱ですが「張り倒せばいいんだ」というちょっとアウトロー的雰囲気の横綱でした。

占領軍司令官のマッカーサーは「日本は反共の防波堤だ」といいました。翌年1949年、パリとプラハで平和擁護世界大会が開かれました。なぜ二カ所で?フランスが社会主義国代表の入国を拒否したのです。占領下のため大会に参加できなかった日本では、東京の家政学院講堂で平和擁護日本大会を開きました。

この大会の壇上で横綱男女の川は「平和のために微力をささげます」と発言したのです。この時代に、「横綱」のこの言葉はすごく重いと思います。

滋賀県では翌1950年、日野で「平和を守る会」が発足します。平和委員会の前身です。原爆禁止をもとめるストックホルム・アピール署名運動がはじまりました。

全国で645万。署名用紙が会社の寮でみつかったらクビという時代です。集会もデモも禁止という中で滋賀県では21万があつめられました。

51年1月には共産党の川上貫一議員が衆議院の代表質問で全面講和と再軍備反対を主張したのが占領政策に反するとして、国会議員を「除名」されるというとんでもないことがおこりました。

滋賀県でも共産党の活動家が逮捕され軍事裁判で刑務所に送られます。

1951年7月23日、平和委員会の前身、平和擁護日本委員会が朝鮮戦争に反対して石山の晴嵐会館で集会をしようとしたら、集会は「公共の安全福祉を害するおそれがある」と禁止され、会場は武装警官隊に囲まれました。

京大学生だった小畑哲男さんたちはこの会場で展示しようと原爆被害の写真を模造紙2枚にはりつけて用意していましたが、やむなく石山の町の板塀に模造紙をとめて通りがかった人たちに見てもらいながら、警官の目をのがれてゲリラのように走りまわりました。 

翌24日、大津中央小学校でフランス文学者桑原武夫さんをまねいた「平和講座」は消防車の放水で追い散らされました。小学校の前は広い道路ではありません。町屋がつらなる「道」です。

ここで模造紙の原爆展をしようとした小畑さんは手錠をかけられます。写真も警察に没収されました。

1952年には平和条約が発効して日本は占領から解放されます。

それでもこの年、東京のメーデーは血のメーデーになりました。滋賀大学学生自治会が「大津米軍基地撤去」をかかげてストライキを敢行したのはその翌月です。前年には京大学生が昭和天皇の「行幸」を赤旗でむかえる騒ぎがありました。京大学生自治会は解散させられましたが飢えと赤旗の時代でした。

以下、その時代の証言です。(故人の証言は、1980年代に村田隆一氏が滋賀民報に連載した「さむらい烈伝」を資料に加筆しました)

 

 

 

 

 

 

『滋賀民報』196886

今井幸さんの証言

「おおぜいパクられた」

   今井さんは1898年、水口の加藤藩の剣術指南役の家にうまれました。お母さんの実家は京都の北面の武士。だから「忠孝」の二字でそだてられた。

「天長節なんか母が教育勅語を読んでねえ。ほんとキビしいでしたんよ」   

結婚は大正6年、大津市京町でご夫君は内科小児科、ご夫君の妹さんが歯科の今井医院を開業。

「共産党のことがわかったのは戦後、軍部にだまされてたことがわかってからですねえ」

学生運動やってた子供の影響といいますがアカハタを読んだ。ところがひどい時代だった。共産党の半非合法化。家に共産党員が出入りすると朝から私服が「応接間に」あがりこむ。幸さんが小窓をあけておくと「私服がいるよ」という合図。

1951年にガサ入れ。幸さんの足音を知っていておそく帰ってもちゃんと迎えに出るおとなしいネコがいました。

「このネコがガサにきた私服にきついこと飛びつくのん! ネコにも根性があるのかしらん」

50年代「あの時分はオルグに来ても共産党が泊まれるとこあらへんの。壺井繁治さんも江口榛一さんも松川の被告の方もみんなうちにみえました」それで自信がついて全然こわいと思わなかった。

   「主人? 妨害はしませんの。ただ協力もしやへん」

警官は幸さんにはなにもいわないでそのご主人にばっかりいう。ご主人の部屋をかきまわす。ところが晩年、ご主人が寝たきりのとき瀬崎さんが当選します。「よかったなあ! おめでとう!」いうてくれてうれしかった。

   おおぜいパクられて山科の刑務所や滋賀の拘置所にも毎日ほど差し入れにかよいます。そして講和条約。

   朝一番に刑務所に。「もしアンジョウ出さなんだら取り返さんならんでしょ?」

   ところが出てこない。やっと日が暮れてから半ちゃん(仲川半次郎さん)の姿が。いっしょに出た11人と迎えの人たちと駅まで行進して「みんなうちにお泊めしたん」

   ナギナタが似合いそうな肝っ玉のすわったお母さんでした。

 

 

 

梅本菊次郎さんの証言   満蒙開拓青少年義勇軍から生還して

梅本さんは長浜はじめての共産党の市会議員でした。もの静かで、平和行進で長浜を歩くと市内みんなが知り合いかと思うほど、あう人ごとに挨拶をかわしていました。町かどには折鶴コーナーもありました。梅本さんのご近所を行進すると、ご近所総出で歓迎をうけたことをおもいだします。

1926年長浜の農家の生まれ。小学生のときは並外れた腕白で二年生のときは落第しかけた。

この少年が15歳のとき長浜ではじめて満蒙開拓義勇軍に志願しました。

花火と旗と全校生徒と町内あげての見送りとの中を出発。現地の訓練所を経て19の春に内蒙古王爺庁が永住地にあてられました。やせた荒野に杏の樹が。狼が家畜をおそい冬はマイナス30度以下に。

敗色濃い1945年1月関東軍に入隊しましたが部隊はハイラルでソ連軍に包囲され食料も水もつきてしまいました。

敵司令部を爆破する決死隊に参加。夜陰を出た18人を照明弾と集中砲火がおそいます。生きて火線を突破したのは隊長とふたりだけ。ふりかえれば味方は夜明けの砲煙の中に全滅。

やむなく二人は興安嶺を南下します。沼や腐乱した死体のあいだに昼はひそみ、夜は星をたよりに、ソ連兵に撃たれたり満州人に撃たれたりしながら死線をさまよって一ヶ月。もう9月の末になっていました。

ソ連兵にみつかって7昼夜貨車にのせられてバイカル湖近くの収容所へ。

上官が食料をとって兵隊には労働をさせ、弱りきった兵隊が死ぬ。ほんの三月の間に600人中300人が凍土に埋められた。マイナス50度以下の凍土に。

「もう軍隊はないんや」

民主化運動がおこってやっと生気がもどったといいます。軍隊の非人間性は「真空地帯」どころではなかった。やがて移ったチタ収容所では学習活動もさかんになった。

1948年ナホトカ。やっと帰国!と思ったら

「集結する日本人のためにだれか1年残って食料や衣類の管理をしてくれ」 といわれて梅本さんはほかの3人とともに残りました。

「やっぱり郷愁を感じるねえ! 第2の故郷やから。15歳から23歳、灰色でもぼくの青春やから」

帰国した梅本さんは三菱樹脂に入社。やがて組合活動に。1961年はじめてのストライキをうつ。下積み労働者の待遇は以後3年連続のストライキで大きく前進しました。

1963年からは12年間市会議員も。三菱樹脂の社員でありながら樹脂PCB問題もとりあげて大反響をよびます。

「長浜ではじめて満州へ行って、はじめてストやって、はじめて共産党議員になって。好き勝手な人生やったなあ」もの静かな闘士は甘党でした

 

 

 

福本正一さんの証言   日野で7000人の平和祀りをやった神主さん

あだ名はバクさん。夢をくうバクというのですが眠って夢を見るのではない。夢を実現するむちゃくちゃな活動家でした。

1926年日野の生まれ。「親父が若うて死によってン。おふくろが困るわなア」

たまたま近くの神社で人をさがしていて、お母さんは巫女になり正一くんは神主になるために國學院へ。1943年に卒業して近江神宮の神職になるが軍隊に召集され淡路島で終戦を迎える。そして立命の専門学校法政科二部に。

「神主からの思想転換、これが人がみるほど簡単やないんやわ」

皇国史観、霊魂不滅説、カント、フィヒテ、西田哲学、右も左も斬りまくって立命でも有名やったなあ。

夜は学生運動、昼は裁判所に勤めて組合運動。組合では「おもろい時代でねえ」、23歳で全国最年少の支部長になって「赤坂離宮で中央委員会やったこともあったなあ」

活動をしているうちにレッドパージで職場を追われます。日野に帰って神主、土方、新聞記者、司法書士、なんでもやった。平和サークルをつくってはつぶされ、つくってはつぶされ。

54年にビキニ事件。滋賀県平和連盟が生まれ福本さんはその中心に。カネがないからどこへでも自転車で走った。  「最初自分で署名用紙つくってはじめたけど、だあれもしてくれへん。困ってねえ」という時代ですが近江八幡で、八日市で大平和集会、55年には日野で「警察発表」7000人の記録的大集会をやってのけました。福本さん28歳のときです。近江鉄道にも後援をとりつけ、大山郁夫さん(戦前労農党委員長でアメリカに亡命、平和委員会の前身「平和を守る会」の会長でした)に講演をたのみ、文字通り日野町あげての平和祭りです。

町長も議会も町民も、それぞれの立場で準備に参加して、講演だけでなしにグループの話し合いももたれました。

これは70年代になってもまだ「すごかったなあ」と日本平和委員会の中で語り草になっていました。

そして県原水協、町村会や町村議長会も入っていた原水協の初代事務局長になって、全戸募金運動やら海外代表を呼んできての「原水禁滋賀県大会」やら。

56年には共産党滋賀県委員(入党は52年)になり、結婚もその年。「女房は苦労しとるわなあ。子供つれて半月ほど実家に帰って、日野へ帰りしなに半月分ほどいろいろもろてきて」。

やがて戦後、1951年蒲生中学武佐,59年には一人でびわこ一周平和行進をやろうと考えました。「旗もってリュックおいねてね」

被爆者をたずねたり知人をたよったり、「何屋さんですか? 平和屋さんです」一人で学校の職員室に入って演説したり。その間に二人目の女の子がうまれた。でも平和行進はだんだんふくれてとうとう長浜では800人もの大行進になりました。「運動に夢は大事やと思うよ」。バクさんの夢は大きかった

 

 

阿形賢応さんの証言   60年八日市安保共闘議長は迫力ある快僧

生まれは「明治41年、1908年や」 すらりと西暦が出てきます。

60年八日市安保共闘議長。八日市平和委員会会長。八日市革新懇代表世話人。金賞寺の賢応和尚は万年青年でした。

大正15年八日市中学卒業、仏教専門学校から軍隊に。そして同志社大学にすすみました。

正真正銘の「戦前」に同志社でアカハタを配ります。配る方も受け取る方も顔だけしかしらない。どうしてそんなことを?「軍隊いったためですよ。こんなバカな社会があるか! 思うたな」

河上肇の貧乏物語に感動し、真剣にマルキシズムの勉強をした。そしてつかまって警察に二ヶ月。

「ぶちのめされたねえ。『房』に帰るときは気イ失うとったな」隙をみて手錠のままとびかかったら木刀でめちゃくちゃなぐられた。「若気のいたりヨ。今ならもっとうまいことやったる」 

分校の講師になった。黒板に一行書いたとおもったら教室のうしろからナイフや錐がバラバラと17本も飛んできて「ドギモぬかれたねえ。なにするか!いうてどなりつけたら」ワアッと男子全員が外へでてしまい、とっつかまえてはり倒すと今度は椅子や机をふち壊して燃やし始めるありさま。「こらあかん」授業やめや!メメズ取ってこい!全員ひきつれて安土に魚つりにいった。

「これはよかったわ!教師もアウトロウばっかりやったなあ。

校長には反対したれ!たとえええことでも反対や!政府や教育委員会には反対したれ!これヨ。これのないようなやつは」

 「先生の少年時代はどうでした?」

 「イヤイヤ!優等生でした」

いつか八日市平和委員会会長になって、八日市高校の講師になって、社会科を受でけ持つ。

憲法を教える必要上日本国憲法を和英両文で丸暗記したといいます。

「木魚叩きもってポクポクやったらすぐ覚えられる。英文おぼえると完全に理解できるわ。けど3年生はあかん。入試に役立つこと教えてくれぬかす。勝手にさらせ。自分で勉強したらええやないけえ」

血の気の多い老僧は病気で寝ていても門前に選挙カーが来るとむくりと起きだして応援に。途中でおまいりを断った檀家に出くわし、安静を命じた医者に出くわし、具合の悪いこと!いま杜甫をよんでいる。茂吉をかたり人麻呂をかたり談論風発、一代の好尚漸く救うべからざらんとするを嘆いて、「革新懇ももっと異分子をいれなあかんなあ。サロン的で」いやはや迫力ある快僧でした。

 

 

伊藤清太郎さんの証言   米軍の軍事裁判で重労働3年・京都刑務所に

1924年水口の生まれ。5人兄弟の長男です。「貧乏人の息子ですねん」 

お父さんは日雇いの苦しさの中を中学までいかせてくれました。

卒業して国鉄へ。両国駅に勤務。44年に軍隊。宇治の高射砲部隊から千葉の高射学校に幹部候補生でいくことになり、いっぺんくらい家に帰らせろ、と仲間と中隊長の部屋の前に座り込んで休暇を獲得。水口に帰る途中でヒロシマに「新型爆弾」が投下された記事をみました。

入学式にいく前に両国で一泊、鉄道仲間と旧交を暖めて、翌日「どこに泊まった!」と怒られている最中に玉音放送 「終戦」。また両国駅にもどって新聞発送の仕事、だからアカハタは復刊第1号から読んでいた。

47年、2.1ゼネスト前夜に膳所駅に転勤。48年福井大地震、組合青年部で義捐金を集めて福井県庁にもっていった。その半年後の総選挙で共産党は35人当選。滋賀から江崎一治さんも当選した。

そのとき伊藤さんは24歳。国労梅小路運輸分会長でした。

49年7月5日に国鉄総裁が登庁の途中行方不明になり轢死体でみつかる下山事件、7月15日には無人電車が暴走して駅舎を壊して民家に飛び込む三鷹事件、8月17日には東北本線で旅客列車の機関車が脱線転覆する松川事件と、無実の活動家が逮捕される怪事件が続発しました。

国鉄では強引な首切りが進行していました。その中で仲間が連結作業中に殉職した。伊藤さんはその闘争の最中に8月22日に免職。地元で運送会社の会計係になりました。

「あの当時はレッドパージで関電でも京阪でも、東レでも、日電でも、日通でも、野沢セメントでも、江若でも、ようけ職場を追われました」

50年、朝鮮戦争がはじまります。アカハタが発行停止命令をうけますが、共産党水口細胞が作っていたB4裏表ガリ版刷りの「水口新聞」の発行も、伊藤さんのところに停止命令がきました。

そして「朝鮮戦争に反対する文書を配布した」という容疑で「英文の」逮捕状をもった警官が運送会社の事務室に来て伊藤さんを逮捕。「その晩小島興くんも自宅で逮捕されました。小学校の同級生ですねん。小島くんは私が逮捕されたのを知ってて逃げなんだ」

膳所刑務所内の拘置所から大阪の拘置所に移され、淀屋橋にあったアメリカ軍事裁判所へ。弁護士は上岡竜太郎さんのお父さん、小林為太郎弁護士だった。判決は「小島君とおなじ重労働3年罰金500ドル」裁判はいちいち通訳するので大変でした。

その後小島さんは病気だというので四条畷の「病監」に移されます。廊下の向かいの房にいた小島さんが四条畷にいくといって出て行ったのが最後の別れ。小島さんは獄死したのです。

それから京都の刑務所にうつされました。そのとき看守は「憲法も刑法も刑事訴訟法も変わったけど監獄法は変わっていない。戦前どおりの処遇をするからそのつもりで」と脅したそうです。

刑務所には仲川半次郎さんがいました。仲川さんは軍手づくりの作業をしながら、出獄したら結婚をするとか、議員に立候補するとかはなしていた。

日野の大塚真二さんもいました。大塚さんは留守宅を警官隊に襲われ、たまたま日野で連絡を受けて、服を変えて水口まで歩いて、豊岡で2ヶ月活動していて捕まったのです。大塚さんは結婚していて、奥さんが生まれたばかりの長男を抱いて面会にきたのがうらやましかった。大塚さんは2歳年下。みんな若かった!

1952年4月27日、刑務所の中まで労働歌が聞こえてきました。翌28日に講和条約が発効するのでした。

滋賀県から入獄していたみんなが東野井上町から山科駅まで歩いて、今井幸さんのお宅にひきあげました。奈良の少年院に入れられていた西田清さんも帰ってきました。(ご本人の原稿をもとに)

 

 

 

彦根マルビシ百貨店に2万人

学生がやった原爆展は「押すな押すな」

 

Ⅱ 原水禁運動・基地闘争・そして平和委員会の誕生

 1952年、サンフランシスコ平和条約が発効した年ですが、まだ朝鮮戦争はつづいていました。東京のメーデーは皇居前になだれこんだデモ隊と警官隊が衝突して、2人が射殺され1230人が検挙されるという血のメーデーになりました。「破壊活動防止法」が成立した年でした。

彦根の滋賀大学経済学部の山崎景三さん、高橋邦太郎さんたち学生自治会のメンバーは原爆写真展を計画します。

会場はマルビシ百貨店。展示写真は京大同学会から借りました。中学、高校に案内状を出し、市内にポスターをはり。6月2日から8日まで。

一週間の入場者は高橋さんの記録によると2万人にのぼりました。最後の7日(土)には3000人、8日(日)には7000人。文字通り「押すな押すな」の盛況でした。  

『原爆写真展』で:山崎景三氏提

ヒロシマ・ナガサキの被爆の実相はまったく知らされていませんでした。アメリカは原爆被害の報道を一切禁止していたのです。

学生たちは写真展のあと年末には彦根で高校生の平和会議をやりました。このとき八日市高校3年生の武村正義さんも出てきたそうです。

1954年のビキニ被爆事件は全国に大きな衝撃をあたえました。

ビキニ被爆事件は「死の灰」という言葉を生み出し、7万トン以上のマグロが廃棄されました。「放射能を吐く大怪獣の暴威は日本全土を恐怖のドン底に叩き込んだ!」ゴジラという怪獣映画までつくられました。

この年の8月、市川純雄さんたち彦根出身の京大生が彦根マルビシ百貨店3階で原爆写真展を開きます。

市川さんたちはリヤカーにマイクをつんで市内をまわって宣伝しました。たて看板も立ててまわりました。この写真展も大きな反響をよびました。

学生たちは写真展のおわったあと、炎天下を原水禁署名運動の発起人を依頼するためにあるきまわりました。原水爆禁止のステッカーも市民に配って門先に貼ってもらいました。そして芹汀会館で発起人会がひらかれます。10人ほどが集まって学生たちの労をねぎらい運動の進め方が語られました。

この活動は北川泰三さんたち平和活動家にひきつがれます。北川さんは52年の写真展も54年の写真展も応援していたのです。

井伊直愛市長を会長に、西田集平市立図書館長を事務局長に、近藤悦男、北川泰三、中川寿一の各氏を事務局にして「原水爆禁止運動彦根連絡協議会」が発足しました。図書館の机が拠点です。事務局が交代でつめて署名の集約。またたくまに2万余の署名が集約されました。そして9月に県下にさきがけて「彦根原水協」が結成されたのです。

 

 

衆議院公聴会でも市民が訴えた

       あいば野米軍基地化反対の町ぐるみの大運動

 

あいば野はふりまわされました。

終戦後すぐ、政府は演習場を農地にしようとしました。入植者は滋賀県だけ  でなく、京都、福井、石川、大阪、名古屋、長野、愛媛、栃木などから50家族 くらいになったということです。

一方、1945年には、兵器や民間人が持っている刀剣類を接収するためアメリカ軍が今津の福田屋旅館に進駐します。町中からストーブをかき集めたりたいへんだったそうです。小さな商人宿に45人も泊まったそうですが女将の山本俊子さん(当時20歳すぎ)によると二人のルテネン(将校)さんは四畳半の部屋で、兵隊に食事がいきわたってから食事をするという、なかなか民主的な人物だったようですが、それでも俊子さんは夜は親戚にとまりに行ったそうです。

しかし米軍の進駐はこれにとどまりませんでした。46年には砲撃の演習が始まります。

米兵の中には銭湯の女湯に乱入して女性に抱きついて、追い出そうとした主人を湯船に投げ込んだ奴もいます。一度や二度ではなかったといいます。ある商店の奥さんは、米兵に追いかけられて家の二階に逃げ込んだら土足で追ってきて、お父さんが立ちはだかって助けてくれたといいます。二階から飛び降りて脚の骨を折ったという女性もいます。晩御飯を食べていたら店のガラスを米兵が石を投げてわった。警察はなにもしてくれない。MPは兵隊を基地に放り込むだけ。

だからいま、「日米合同演習反対」のたて看板を立てさせてくださいというとお風呂屋さんも花屋さんも本屋さんもどうぞどうぞということになるのです。

さて入植ですが事業が軌道にのりはじめた1946年3月、突然あいば野は野砲射撃訓練につかうので引き渡せ。せっかく入植をしようとした人々はショックですが米軍に反対はできませんでした。

1952年には自衛隊の前身、保安隊があいば野に常駐します。しかし保安隊幹部への貸家はなかなかできず値段もどっとつりあがった。出迎え?絶対反対や!と役場にどなりこんだ人もいます。青年団、婦人会にも反対の声は高かった。

1953年5月16日、今津町役場に県庁から電話がはいります。日米合同委員会が21日に演習場を視察して高島郡の町村代表と懇談したい。これはただ事ではない。米軍専用基地になるかもしれない。すぐにその夜関係部落の代表者と対策協議。18日には関係町村長が対策協議、県に要望書をだします。

22日には緊急の町民集会。青年団は朝からオート3輪からハンドマイクで集会参加をよびかけて町内を走り回りました。小学校には500人があつまりました。町長の報告のあと「米軍専用基地化に対して、われわれ町民は命を賭して絶対に反対する」と決議。代表50人はその場からバスで県庁に陳情にいった。町をあげての反対運動がはじまりました。

27日には行政監察庁から調査に来ます。同じ日に陳情団が外務省、農林省、大蔵省、保安庁に。代議士もよびよせました。

6月22日には県議会が満場一致で基地化反対を決議しました。

7月15日には衆議院外務委員会が公聴会を開いて、前川今津町長、堀井婦人会会長、堀井今津町議会議長が参考人として出席して「絶対反対」をうったえました。

結局「保安隊永久駐留」ということで反対運動は解散しますが同時にアメリカ軍の演習場使用も決定されます。そして10月には米海兵隊の演習がはじまりました。当然青年団からも婦人会からも「踏みにじられた」との声があがりましたが。

内灘、妙義、浅間、板付、日本原、千歳、全国に基地闘争が広がっていった時代でした。

 

追記 矢野直愛さんのこと

多くの先人たちの中で、どうしても滋賀県平和委員会初代事務局長だった矢野さんのことだけは書きとどめておきたい。古い会員たちの気持ちです。

矢野さんはデモの先頭で横断幕をもつ人ではありませんでした。集会の壇上に立つ人でもありませんでした。誠実に決めたことをキッチリやる人でした。

矢野さんは日電で新しい機械を開発する技術者でした。

平和行進が石山の日電の工場の前を通ると、労働組合の幹部たちが「金一封」をもって待っていてくれました。原水爆禁止運動の路線では原水協とはあいいれない組合だったのに。

退職後「小脳萎縮症」といって、意識ははっきりしているのに運動機能だけが失われる難病になりました。次第に自力で歩けなくなる。会話もできなくなる。

それを知った日電労組OBの嶋澤さんや委員長の東郷さんたち、かつて矢野さんと激論をたたかわせた人たちは、矢野さんを励ますカンパをよびかけました。592人から142万円のカンパが集められて矢野さんにとどけられました。

矢野さんが亡くなったというしらせに病院にかけつけると、ベッドの上で意思に従がわない四肢を、パズルみたいに奇妙にねじまげて亡くなっていて、どんなに口惜しかっただろうと声を失いました。

お葬式には会社の人もふくめてたくさんの参列者がありました。号泣する人を見て長女の直子さんが「父にもいいお友達があったのですねえ!」といいました。

生前、日本平和委員会事務局の安田さんという女性は「わたし矢野さん大好き!」といったあとでつけ加えました。「でもおもしろくない人だねえ」

誠心誠意、命をしぼりつくして平和のために献身した「おもしろくない人」は人々の心を大きくゆさぶったのです。

雲のむこうの矢野さん! 聞こえますか! 運動は発展するよ!

  

 

 

 

「日常的に」平和運動を 

滋賀県平和委員会の誕生

 

1955年2月6日、滋賀県平和委員会が結成されました。

会長は西村関一氏、副会長は福家俊明氏、常任委員長は藤沢実正氏、事務局長が矢野直愛氏でした。

平和委員会設立初期の理事さんたち

西村さんは社会党の参議院議員。牧師さんでデユフィの絵を愛する温厚な紳士でした。

福家さんは三井寺、園城寺の長吏、平和運動の象徴的存在です。すごい平和委員会でしたが会員は、たった11人でした。

会員数は56年16人、57年18人、58年20人、62年25人、63年105人、64年282人、65年450人。

なぜ平和委員会は生まれたのか?

1954年、大山郁夫さんの講演会1000人、大津平和祭1000人、青年男女湖畔の集いに数百人、八日市の原爆から人類を守る湖東文化祭1500人、つぎからつぎに大イベントがつづきました。

もはや平和運動はアカの運動ではなくなっていました。でもひとつのイベントがおわればそれまで。平和運動の組織は残りません。

大きな成果を立ち枯れさせないために、平和の組織が必要だ。連絡協議会の平和連盟では不十分だ。日常的に平和運動をすすめる組織をつくろう。

そういうわけで日野に平和センターが生まれ彦根に原水協が生まれたのですが、全県民を平和の一点で統一する個人加盟の組織として平和委員会が生まれたのです。

平和委員会が「よびかけ団体」から脱皮するのは62年です。

61年10月21日22日に舞鶴で開かれた「軍事基地撤去・安保体制打破・日本平和大会」に県下から20人を送りました。日本平和委員会は「人口千人に一人の平和委員会を」というスローガンをうちだしました。

62年は1月20日雪の中でのあいば野戦車基地反対集会、2月21日にはびわこ一周平和行進が出発します。3月には第1回の平和学校をひらきました。4月28日には関西総決起集会に数百人が参加しました。第8回世界大会には82人が参加しました。

こうして63年には会員が100人をこえました。64年には450人になりました。

 

 

 

自衛隊適格者名簿をバクロして

新聞に週刊誌に大反響をよぶ

 

大きくなった滋賀県平和委員会は専従事務局長に若狭武裕さんを迎えます。

64年アメリカは北ベトナムへの爆撃をはじめます。

65年、草津平和委員会が駅前でベトナムの写真を展示するとバスもとまる人だかり。

日本平和委員会は「豆ビラ」運動をよびかけました。県職くさつ平和委員会、セキスイ平和委員会がそれにこたえて職場にてづくりの「豆ビラ」をくばりました。

自衛隊は演習場外の市街地や田畑にも出て演習を始めます。ベトナム特需という言葉も生まれて県下でも軍需生産がはじまります。

滋賀県平和委員会は66年5月に「戦争政策のあらわれに対する統一調査用紙」をつくって全会員に調査をよびかけました。

その結果、滋賀県総務部地方課長名で市町村長あてに出された「自衛隊の募集事務について」という公文書を入手します。そこに書かれた「自衛官募集事務処理要綱」の第5条に「適格者名簿の作成」というのがあったのです。適格者の情報を「自衛隊地方連絡部長に通報するものとする」。第4条には入隊目標数も策定するとあります。

このバクロは一般新聞にも週刊誌にもものすごい反響をよびました。平和委員会の名は一躍天下にとどろきました。

滋賀県平和委員会はさらに、市町村ごとの自衛隊受験者数、入隊者数、防衛協会の会員数、自衛隊父兄会の会員数、隊友会の会員数まで明らかにして、「中学、高校生を主とする青少年層によびかけ『滋賀県朝雲友の会』を結成いたしたい」という朝雲友の会結成趣意書、防衛協会設立趣意書、自衛隊父兄会の規約まで手にいれています。

軍需産業についても東洋レーヨンがパラシュート、富士車輌が火炎放射器・特殊自動車、新日電が自衛隊のダイオード、江州鍛造が兵器部品等々22事業所での軍需生産も調べあげました。

情報公開なんてとんでもない。役所は前近代的な封建的空気が支配していました。しかもコピーもなかった。今のようにどこにでも共産党議員がいる時代ではなかった。平和委員会をあげての調査活動で手に入れた資料は手書きで写すしかなかったのです。

平和委員会はベトナム人民支援、自衛隊反対をかかげて1万枚のステッカーを貼り出し、署名用紙3千枚をつくって反撃しました。

当時の平和委員会総会はこの取り組みは県平和委員会の活動を「質的に変える上で画期的なものとなった」と総括しています。

 

Ⅲ 安保破棄の統一戦線の追及・ベトナム反戦運動

あのころ、みんな若かった!

     元気な平和委員会に狂ったような攻撃が

 

 

長浜平和委員会が1964年に出した「みんなで考えよう」というパンフがあります。

その編集後記に「平和委員会結成1年がきました。会員もべらぼうにふえ、会誌もだんだんよくなり、平和勢力に終止符はありません」。あたるべからざる勢いです。 

翌年川崎で開かれた「アジアの平和のための日本大会」にはその長浜を中心に30人が参加しました。30代はたったふたり。あとの28人は二十歳前後の若者ばかりでした。

 その若者たちが、かえりの夜行列車から大会の資料をみんな投げ捨てるのです。「会社でみつかったらヤバい」狂ったような労働組合つぶしははじまっていたのです。

66年の草津平和委員会の総会議案には「左を歩いていて連行された。駅前でビラを配っていると警察のジープにひっぱりこまれて留置場に。留守宅に私服がきた」などなどとかかれています。

留置場に泊められたのは積水のキンちゃんでした。完全に黙秘したのですが朝になるとどういうわけか会社から迎えにきた。

キンちゃんたちは会社では真っ赤に塗った箒をもたされて掃除をさせられます。胃潰瘍の痛みは胃の中で親知らずがうずくような立っていられないほどの痛みで、寒さが一番こたえます。それなのに工場の屋根にあがらせて掃除をさせるのです。

会社が潮干狩りのバスツアーをしました。藤田さんはせっかくの機会だからと子供づれで参加するとバスの中でマイクをまわして「みんなひとことづつあいつの悪口をいえ」

「石にかじりついても職場にしがみついて、職場を変えるのが労働者だ」でも会社は容赦なく活動家を配転してバラバラに孤立させます。

 夜に会社の不当行為を訴えるビラを電柱にはってまわりました。翌朝には一枚残らずはがされていました。ほんとにみんな若かった!

県外の集会にいくバスの中は歌声がうずまいていました。署名の統一行動のあとでもみんなで歌の輪ができました。その若い平和委員会はこうして壊滅的打撃をうけたのです。

公務員職場でも出張していると警察が職場に「あいつはどこにいった」と聞きにきます。町を歩いているだけなのに警官が二人通せんぼをします。「名前は? 住所は? どこへいくのや?」「なんでそんなことを聞くんや!」「見かけん顔やさかい」「なにを!そんならあの人はどこの誰や!いうてみい!」「ああ、あれは野路の山本さんや」ハラ立ついうたら!「答える必要ない!どけ!」平和委員会はよく闘いました。

 

 

 

反戦フォークソング・安保廃棄の統一戦線の追求

     そして70年安保は大津で4500人のデモ

 

草津平和委員会の渡辺牧師は京都のYMCAでコーラスの指導をしていて、売り出す直前の高石友也をしっていました。

この渡辺さんは祈っていても平和は来ないと説教するのです。 

「教会は闘いのとりでにならなければいけない。革命のとりでにならなければ いけない」、「センセちょっといいすぎとちがうかなあ」、「いや宗教者というものは」とイエスさまをはじめ日蓮上人までひきあいに出して、教会の屋根裏みたいな部屋でそんなことをいっていると、「天国よいとこいちどはおいでよ 酒はうまいしネエちゃんはきれいだ」とすごいソプラノが下からひびいてきます。

「あれだれや?」、「ぼくの女房」そして67年6月、高石友也をよんで草津会館で反戦フォークソングのつどいを開きました。

たて看板で宣伝し、朝7時から日本コンデンサーと滋賀産業とふたつの工場の前でビラをくばり。

大当たりに味をしめた平和委員会は11月には教会の礼拝堂で「平和のための市民のつどい」を開きます。朝9時から夜の8時まで。正面に南北ベトナムの旗をかかげて。

「センセかまへんのか?」「かまへん。あんなとこに神様はおらん」

今度はフォークソングだけではありません。戦争体験や基地調査の報告や。その合間に高石さんが歌います。それに刺激されて近江八幡までギターをとりに帰って飛び入りで自作自演の歌をうたったのが、部落解放同盟近江八幡支部の岡林信康さんでした。彼はまだコードも満足に知らないありさまでした。

岡林さんは草津平和委員会の総会にも一升瓶をさげてきてくれましたが、まさか後年美空ひばりと浮名を流そうとはゆめにも想像できませんでした。ともあれこれが日本の平和運動がフォークソングを取り入れた最初でした。

この二つが大当たりして地区労も集会に反戦フォークソングを取り入れるようになります。近江八幡平和委員会も映画館を借り切って反戦フォークのつどいをしました。原水協の長等公園での決起集会にも高石、岡林のご両人はきてくれました。

さて草津平和委員会は草津に「安保共闘」をつくろうという方針をうちだしました。

そしてあつかましく地区労幹事会に押しかけては沖縄行進への協力を要請したり、講演会を「共催」したり、ナイキパンフを大量に持ち込んだりして、68年の草津・栗東地区の10.21集会では草津平和委員会の村田事務局長が学習会の講師をしました。

 

とうとう69年の6.23は社、共、地区労、平和委員会がつくった「平和のための市民会議」の主催で集会。デモの先頭には平和委員会がたちました。手に手に青色の小旗をもって。いろいろ紆余曲折はありました。しかし平和委員会は安保廃棄の統一を訴えつづけました。

そして翌70年の安保条約に反対する6.23集会は、県下9箇所で「統一集会」が開かれ、大津の中央集会は社会党、共産党、地評、中立労協、地区労、平和委員会の統一集会、メーデーの2倍の規模の4500人のデモが70年代の夜明けをつげるようでした。

それ以後滋賀県では6.23、10.21はつねにこの形でやることが定着しました。

沖縄協定反対闘争でも共闘が成立しました。平和委員会は地評や中立労協などの大組織を相手に一歩も引かないで統一を主張し続けていたのです。そしていつも決議を起案する役目でした。社会党県本部にいくと法岡書記長が「ところで平和委員会さん会員は何人です?」「正直なとこ400人ほどです」「そら多い! 小さいことおまへんで! 社会党より多い」 1972年、大津で開かれた日本平和委員会全国大会には共産党からも挨拶をうけましたが、社会党からも地評からも大津地区労からもナイキ配備反対高島郡民共闘会議からも連帯の挨拶を受けて、これは全国の仲間をおどろかせました。ちょっとよそでは考えられないことだったのです。  

  そして原水禁運動が「再分裂」の危機にあった84年にも、10・21統一行動は長等公園で3000人の大集会になったのです。

 

 

 

70年安保の年

     原爆忌のお寺の鐘はこうして鳴った

草津平和委員会は1970年、広島と長崎に原爆が落とされた時刻に全部のお寺の鐘がなっららええなあ!とはなしあいました。「国会に大砲うちこんだろか」それよりお寺の鐘の方がええやろ。

というので地図でしらべたら草津栗東になんと150のお寺が!びっくりしましたが後へはひけないと手分けして、地図をたよりに暗い夜道をうろうろと。

「こういうわけでお寺を探しているのですが」というとわざわざ自転車を引き出して案内してくれる人が何人もありました。中には木で鼻をくくったようなお寺もありましたが、ほとんどは快く引き受けていただき、お布施ならぬカンパも16600円になりました。

中には住職が亡くなって、おばあさんが一人布団に寝ているお寺もありました。鐘のお願いをするとそのお婆さんは、枕の下からよれよれの500円札をとりだして、「ええことに使うとくれ」と差出してくれたのが忘れられません。

県立短大の中村久郎さんのところに新聞記者がきて「ほんとに鐘が鳴りますか?」「平和運動はヒトを信頼せんとできません。ほんとに鳴るから鳴ると書いてください」、とはいっても、ただお寺の鐘がなるだけではわけがわかりません。

なぜ鳴るのか。それを有線放送で宣伝しようということになりました。

なにしろ1970年です。有線本部にいくと「安保で繁栄」というたぐいのテープが山と積み上げてありました。でも「わしらこんな恐ろしいもんはよう放送しません。しかしあんたらの運動は国民みんなの願いや」といってくれて、「広告」でなく「告知」放送としてタダやってくれました。

「栗東の有線が『アメリカ帝国主義』いうとったで!」。有線放送が中村さんの原稿をそのまま放送してしまったのでした。

さて当日、あるお寺にいくとご住職が暑いさかりに盛装して、広島の方角に手を合わせ、一撞きひとつき心をこめて。  鐘の音は市内にしみとおってゆきました。

それだけではありません。お寺からさまざまな反響がよせられました。「来年もずっとつづけて鳴らします」「「近所の青年をあつめて映画『ヒロシマ』を映したい。フイルムが手にはいらないでしょうか」「被爆者や平和運動をしている人と話したい。ぜひ会合の案内をしてください」

 

「おばあちゃんのお友達は原水協の人だけ

お葬式に出てあげてください」

草津原水協は毎月6日、広島に原爆がおとされた6日に駅前で被爆者援護と核兵器廃絶を訴えつづけて40年。欠かしたことがありません。

淵之側キヨノさんは白血球でなしに赤血球がふえる病気でした。悪いときには顔が赤くなるのです。このおばあさんが亡くなったとき「あのおばあちゃんのお友達は原水協の人だけやから、お葬式に出てあげてください」と、近所の人から中村久郎さんに電話がありもした。  

中学生がクラスで募金をあつめました。「被爆者のために使うてください」と市役所に持っていくと「それは原水協の中村さんにとどけなさい」中村さんが中学生の家をさがして御礼をいうとお父さんがびっくりして「そんなことをやってましたか!」

1971年、草津原水協は13人の被爆者の声をあつめて「この声を消してはいけない」というパンフレットをつくりました。

その中の大久保寿子さんの話を紹介します。

「小学校5年生でした。8月6日の朝、2階で姉と遊んでいたらピカッ。夢中で逃げようとしたのですが家はペチャンコ。私たちは体中にガラスの破片がつきささって血だらけでした。両親と私たちはみんなが逃げる方へ歩きました。姉は目がみえなくなって父におんぶしてもらって、いっしょに逃げました。人々ははだかで真っ黒でした。人間でない異様な姿でした。

学校の友達もあとで病気が出て次々に亡くなってもう数えるほどしかのこっていません。学校には御影石の石段がありましたが手でにぎるとボロボロに砕けました。

原爆のときの顔や腕のガラス片はみんなとってもらったつもりでしたが、まだ変なので診てもらったら顔に一個残っていて戸崎病院でとってもらいました」

大久保さんはずっとあとまで鏡を見せてもらえなかったそうです。顔中にガラスがつきささたあとが消えなかったから。

ほかに栗東にいた奥村カメさんという原爆孤老のおばあちゃんが忘れられません。山里で小さな畑と小さな家を借りて生活保護でくらしていました。

交番の前を歩いていたら交番がふっとんで、家に帰ったら家がなくなっていた。当時46歳。それから一人で本当の地獄がはじまったというのです。

草津原水協は4人の原爆孤老に街頭募金からお見舞い金とカステラをもって訪

ねました。カメさんを訪問した小池恒男さんは手をあわせて拝まれて、カメさんからコザの話や自衛隊の話をもちだして「おそろしいですねえ」といわれてテレたりおどろいたり。

毎年、被爆者援護の餅つきをして、お餅をもってお見舞いするのがたのしみだったなつかしいおばあちゃんです。 

餅つきは大津原水協の方が先輩です。今も平和委員会の年中行事として年末には20数人があつまって餅をつき、被爆者の皆さんを訪問しています。70年ごろ草津・栗東では45人くらい、大津には100人以上、県下に400人以上の被爆者がいました。医療法などが改定されると全県の被爆者に説明の手紙を送りました。

大津で被爆者懇談会をしたとき、「原水協は県庁に事務所をおけ」といってくれた被爆者がいます。原水協はそれほど被爆者に信頼されていました。

 

 

 

 

 

 

 

 はじめまして、このHPは2012年5月にオープンさせていただき、日本の中心・琵琶湖・しがから平和の話題を提供、みなさん方と平和を共有していきたいと思っています。

 平和と言えば、赤ちゃんからお年寄り、犬・猫や花・木まで全ての生物、宇宙まで包まれる壮大な概念が思い当ります。そして、平和という言葉の対極に、戦争や暴力、殺人、略奪などといった非人間的な言葉がおかれ、人として豊かに生きてゆくために「平和」が必要不可欠のものであることが語られていると思いま す。

 言い換えると、人間の生きてゆくこと自体が平和運動をしているようなもので、「戦争反対」「暴力やめよ」「琵琶湖の水を放射能で汚すな」など当たり前の主張であり、その対極にあるものを取り除こうとすることも、人間が生きていくうえで当たり前のことであると思います。

 要は人類の生存を脅かす「核兵器の廃絶」や戦争のための「武器・弾薬」、そして、戦争しようとするシステムの「軍事同盟」をなくすすために、知恵と力を出し合うというのが平和委員会。その滋賀の一員です。 まずはご意見、ご協力をお願いします。 

 

2013520日  滋賀県平和委員会事務局長 木村晨二 Tel/Fax 050-7511-2370

 

事務局長あいさつ

【タイトル】背景は

 日本仏教の殿堂・比叡山。中国天台宗を日本に持ち帰った最澄、眼下に日本最大の湖「びわ湖」を眺めながら、多くの仏教者を排出しました。

写真は比叡山、琵琶湖と県都・大津、滋賀を代表します。手前の野洲「三上山」から。

事務局近傍

5月07日

カラスの巣 旭抱えて 三上山
カラスの巣 旭抱えて 三上山

4月03日

花土堤 叡山抱いて 草津川
花土堤 叡山抱いて 草津川

3月00日

使用前 使用後誇る 竹の筅
使用前 使用後誇る 竹の筅

2月6日

立春の 雪衣着て 比良の峰
立春の 雪衣着て 比良の峰

1月10日

蝋梅の 匂いひとつ 雪着けて
蝋梅の 匂いひとつ 雪着けて

12月22日

初雪や衣を替えて比叡の山
初雪や衣を替えて比叡の山